私にとっての「すきちかもど」11年間の思い出


 会員の皆さんそれぞれの出会いは、今から11年前に「すきちかもど天文同好会」
が発足した時に始まりました。以来、たくさんの方と知り合う事ができ、私の人生に
大きな、また様々な影響を与えました。今になると、11年間、長いようで短かかっ
たように思いますが、本当に色々ありがとうございました。同好会は解散しますが、
せっかくの出会いを無駄にはしたくありませんので、今後ともお付き合いをよろしく
お願いします。


 私は小学生の頃から理科が得意で、天文に限らず気象や化学にも興味を持っていま
した。11年前、ハレー彗星の再来で天文にのめり込むようになりました。どうして
も望遠鏡が欲しくなり、たまっていた小遣いで新宿のヨドバシカメラに買いに行った
のを思い出します。
 望遠鏡を手に入れた私は、一緒に観測出来る仲間が欲しくなりなした。当時中学3
年生だった私は、まず同級生を捜しました。そうしたら、同じ部活だった小野君が望
遠鏡を持っていたのです。しかし、小野君だけでは満足できなかった(失礼)私は、
どこかの同好会に入会することにしました。たまたま、月刊天文で同好会名簿の記事
があり、それを見て地元の同好会に手紙を出しました。でも、やはり(当然?)会の方
は「おじさん」ばかりでちょっと窮屈そうで入りませんでした。(東亜天文学会には
全国的な会という魅力からこの時入会しました。当時最年少だったのではないでしょ
うか。)そんなこんなで、さらに同じ世代の仲間を求めるために、同好会をつくるこ
とにしたのです。昭和61年9月10日でした。

 中学生2人で始めた同好会は、こうしてその後11年間続く訳ですが、すぐ最初の
問題が起きました。私は全国に会員を募集したかったのですが、小野君は「うちら2
人でいいよ。会えもしないそんな遠くに会員がいたってしょうがない。」というので
す。私はもっと仲間が欲しかったので譲らず、会員を募集する事になりました。月刊
天文の12月号と1月号です。また、読者の投稿欄に載っている同世代の人に、手紙
を出したりしながら、数名の会員が集まりました。同好会を創って会員を全国に募集
する事は親には内緒でした。「あなたはまだ未成年なんだから、もし何かあったらみ
んな親の責任になるのよ。やめなさい。」と言われおしまいです。それで突然、日本
の各地から「すきちかもど天文同好会本部事務局鈴木様」という宛名の手紙が多数届
くようになったものですから、親はびっくりしてさぞ心配したでしょう。

 次の問題は、郵便振替口座を開設するときでした。これから会費を送ってもらうの
に現金書留が送られてきたのでは、またまた親が心配してしまいます。また、書留郵
便も高いので、どうにか安く確実に会費を送ってもらえるには・・・。そこで思い付
いたのが郵便振替口座です。郵便局なら全国にあるし手数料も安いのでこれに決めま
した。
 普通、郵便振替口座なんていうものは企業が消費者から代金を受けたりするときに
使うもので、個人で開設している方は殆どいないでしょう。そのため、同好会名義で
開設申込書を書いて出したのですが、何と局員の方に「未成年者が開設する場合は、
親の同意書を持ってきて下さい。」と言われてしまったのです。親に言えば同じ事に
なってしまいます。悩みました。
 結局この件は、違う郵便局に持って行ったら、すんなり受理してくれたので助かっ
たのですが・・・・。

 こうして次々に会員が増えていき、会報が充実してきて、そういう「同好会活動」
が楽しくなってきました。3番目の問題点はこの会報でしょう。
 初めの会報は、すべて私一人で作っていました。部数もまだたいした事なかったし
、会った事も無い、車でしか行けないような距離では、お願いしようにもできません
。しかし、会員が増えればコピーも、紙折りも、宛名書きも増えるし、楽しみ以上に
それが負担になってきます。会員が増える事による期待、楽しみ、会報の充実度が上
がれば上がるほど、会報制作の憂鬱さが増すのです。そのため会員募集も出来ず、同
じメンバーによる同じような会報で、徐々にマンネリ化して、後に会員の活動意欲の
低下につながりました。
 結局この問題は解散時まで続く事になります。

 その後は、S3との合併を経て、同好会活動(天文に関係あるなしに関わらず)の
一番楽しかった、そういう意味での最盛期を迎えます。会報は充実しホチキスの針が
通らない事もあるし、写真が多く出回り、各支部で観望会や親睦会が開かれ、何の問
題も起きなかった純粋に楽しめる時でした。

 その後、もめ事が起きたのは、メーリングリスト(パソコン通信)に関してでしょう。
この時から一部の人間関係に問題が生じ、以降、会の運営方法や活動内容、会報の内
容、役員の権限、会則など様々な問題に波及していきました。
 敢えて言いますが、これらの諸問題に関しては、同好会の解散という形で一応解消
していますが、解決はしていませんので新同好会でもいつの日か問題になる日が来る
かも知れません。


 全国に友達が出来るという事は、私にとって大変わくわくし、楽しみなことでした
。最後までお会い出来なかった方も残念ながらいましたが、毎年各地で開かれた総会
の場でほとんどの方とお会いして親交を深められた事は私の大きな喜びでした。
 初めて遠方の会員と会ったのは、黒田氏でしょうか。1988年、2人でスターウ
ィークinONTAKEに行った時でした。当時はまだ高校生で、黒田氏が私の実家に来て(
笠幡駅で初めて会った)一泊し、電車で行ったのを覚えています。直前になって行く
ことを決めたため、宿の予約をとるのが大変で、1泊目が八海山荘、2泊目が地滑り
跡のすぐ上の宿で相部屋でした。(場所が分からなくて探すのが大変だったんだ。し
かも移動はバス。)電車も帰省ラッシュで塩尻まで立って行ったと思います。
 夜に雷雨があったり、奇跡の晴天になったり、移動の度にバスだったり、いろいろ
大変だったのですが、楽しいイベントでした。


 この11年間で一番心に残った事は何でしょうか。初めて知らない人が会員になっ
た時、その知らない人と初めて会った時、会報作り、総会やイベントで集まった時、
観測会、親睦会、解散に至る経緯など、たくさんありすぎて困ってしまいます。
 その中から挙げれば、毎年の総会でしょうか。みんなで楽しく星を眺め、酒を飲み
ながら雑談する。総会のために集まってはいますが、実質上問題も無かった頃はあっ
という間に終わり、その後の親睦会の方がメインだったでしょう。トランプ、フリス
ビー、バドミントン、花火などをして遊んだことが強く思い出されます。1992年まで
は毎年望遠鏡を持って行っていましたが、天気に恵まれる方が少なく、星見よりも宴
会?の方が盛り上がっていました。


 私自身それに数名の方は、残念ながら最後の方で、同好会の楽しさ(同好会で気楽
に楽しむ)よりも、同好会の問題(苦痛?)の方が大きくなってしまい、このように
なってしまいましたが、それ以上に今まで楽しい事もあったし、色々な方と知り合え
たことは、どれもこの同好会あっての事だったし、良い経験と社会勉強だったと思っ
ています。



 枚数オーバーで石井さんに迷惑をお掛けしますが、ここで気分を変えて総会の時の
事でも書きたいと思います。
 今年の総会はまずまずの天気で2日目の夜は、満天の星と天の川を見ることができ
ました。しかし、新同好会についての話し合いのため、肉眼でのごく短時間の観望し
か出来なかったのは少し残念でした。
 関東からの参加者は5名。西村君は車で、他の4人は青春18切符を使い、約7時
間をかけて各駅停車で上山まで行きました。集合の後、あいにくの小雨の中、みんな
で蔵王温泉につかり、1日の疲れを癒しました。(ただひたすら電車に乗っていただ
けだから、疲れてはいない?)夕飯は、宿で自炊する事にしました。買いだした材料
を使って黒田君が郷土料理であるいも煮を作ってくれたのです。その後は、てきとう
な話をして、翌朝お釜で日の出を見るため、みなさん早めに寝ました。
 翌日、宿を午前4時に出発し、お釜に行きました。ものすごい風です。息苦しく、
前傾姿勢で歩かないと飛ばされてしまいそうな風でした。雨は降っていなかったので
すが、どんどん下から雲が湧いて日の出は見ることが出来ませんでした。(あきらめ
て宿に帰り、再び起きたときにはとても良い天気になっていた。)
 総会は予定通り9日の午前9時から始まり、8人しかいないことを感じさせないく
らいみんな真剣に会について考え(目の前でやっていたパラグライダーが気になりま
したが)午後1時まで続きました。ある人は、「こんな総会らしい総会は初めてだっ
たね」と言っていたくらいです。やっとのことで議案すべてが終了しましたが、新同
好会の事についてはまだ何も煮詰まっていませんでした。
 さあ、みんなで山寺に出発です。山寺といえば芭蕉の句で有名なところです。はっ
きりいって1004段だっけ?あっという間でしたね。でも暑かった・・・・。展望
台からみた風景は印象的でした。宿に帰ってから判ったのですが、この日山形市はこ
の夏の最高気温を記録したそうです。
 そして、日没を見るために再びお釜へ。ここでは、自分のいたポジションによって
見られた人と見られなかった人を分けたようです。見れなかった。ちくしょー。
 あっという間に夜になり、山形市内で夕食をとり、宿に帰り、話し合いの続きを午
前1時までやりました。(外は満天の星空だっていうのに・・・。この時、西村君は
北海道に一人旅立っていきました。)みんなはすぐに寝静まり、私は水沼くんが飲み
足りないっていうもんだから(あっ人のせいにしてる!!)お付き合いし?4時まで
起きていました。
 あっという間の最終日。今日もいい天気です。観光物産会館でお土産を買い、上山
城を外から見学し、お昼頃、高橋君と飯村さんは各駅停車で帰りました。私と石井さ
んは、こんにゃく番屋で昼食をとった後、山形新幹線で帰路につきました。
 (ラ・フランスのこんにゃくとソフトクリームはおいしかったなぁ・・・・。)



 最後に、つたない会長でしたが、今までどうもありがとうございました。

平成9年(1997年)9月10日         鈴木 英夫

※この文は、「HALLELUJAH」最終号に寄稿したものです。

 

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