私は、このほど入院というものを体験しました。動いている救急車などは仕事柄乗ったことはありましたが、骨折から入院、手術と生まれて初めての体験が次々にやってきました。時間を追って書いていきたいと思います。
1999年10月3日、中国への1ヶ月間のロケが近くなってきました。子供も小さく、1ヶ月も会わないと忘れられるんじゃないかと思って、今のうちにいっぱい遊んでおこうと家族でどこかに行くことにしました。しかし、今日は、風が強くてあまりお出かけ日和ではありません。しかも、まだどこへ行くのかさえ決まっていません。そんな中で、とりあえず、関越道を北に向かって走り出しました。10時を過ぎていたでしょうか、帰りの事を考えると、あまり遠くへは行けそうもありません。関越に乗ってもまだ行き先は決まらず、高坂SAで昼食をしながら決めるかということになりました。しかし、そこでも決まらず、再び関越道を北上します。上信越道との分岐点です。ここでの選択は、先週下仁田方面に行ったので、そのまま関越道を行くという事になりました。こんな感じでは、最終的には何の目的も行き先も決まらないまま新潟まで行ってしまいそうです。しばらく行くと、赤城山がきれいに見えて来ました。続いて、榛名山もきれいに見えて来ました。この時点でやっとなんとなく行き先が決まりました。そう、山に行こう!!
渋川・伊香保ICで関越を降り、榛名山方面に向かいました。道路は順調で、途中何か面白そうな所があったら、そこに寄ろうねなんて話をしながら進みます。アートトリッ●館はまだ子供には早そうだし、遊園地みたいのがあったのですが、私たちの目に留まったのは、グリー●牧場という看板でした。子供が動物好きで、今までそういう所に行った時には非常に興奮して喜んでいたので、行ってみようということになりました。
こんな感じで、14時頃、運命の牧場へとやってきました。出発時には何にも決まっていなかったのに、ここへたどり着いたのも何かの必然でしょうか、単に偶然でしょうか。しばらくの間、シープドックショー、牛の乳搾り、アヒルのレースなどを見たり、参加したりと子供も大喜びで楽しい時間が過ぎました。
牧場の草むらのなか、子供をだっこしながら歩いていると、その時は突然やってきました。あっ!と思った瞬間50センチ程の段差からそのまま転落したのです。スロープみたいになっていた所を、子供を抱いていたため全く気づかずに、歩いているそのままの姿勢で左足から落ちたのです。足をくじいた感じになり、子供がいたため受け身も全く取れず、自分の体重+子供の体重が左足を直撃しました。バキッという音がしてそのまま横に転がりました。骨の折れる音を初めて聞きました。木の枝をバキッと折った時のような音です。私は激痛と痺れのため、どこがどうなったのかさえわからない左足を押さえ、倒れたときのままの位置で動けませんでした。事故直後から以外と冷静だった私は、子供を妻へ預け、店の人を呼んでもらい、靴と靴下を脱ぎ、内出血の有無などを調べていました。店の人が救急車を呼びましたと知らせに来てから、到着まで体感時間で10分程と(実際はわからないが)私にはまあまあ早く来てくれたように感じました。救急隊員の様々な質問に答えている間に、骨折ですか?と聞いたところ、「うーんここの皮膚が膨らんでいるでしょ、多分骨折しているね。」という返事でした。空気を抜いて真空状態を作り出し動かなくする固定具で足が固定され、担架で救急車の中に入れられ、救急車と消防本部との無線やりとりをきいているうちに、私たち1家3人は渋川にある関●病院へと搬送されました。救急処置室の中で、私はズボンを脱がされ、レントゲンを2枚撮られました。結果、左足腓骨を2カ所骨折していると言われました。骨折はある程度覚悟していましたが、2カ所とは・・・・。この病院では、しっかり固定してもらって、痛み止めをもらいました。「神経が近くに通っているから、なるべく早く地元の病院に行って下さい。足が動かなくなる事もありますよ。」と脅されて。
親切にも牧場の方が病院まで迎えに来てくれて、牧場の駐車場にある車の所まで連れていってくれました。ここからは、妻の運転で一路自宅まで帰ることになりました。今晩中に病院に行こうと思って、市内の整形外科のある病院に電話したのですが、埼●医大はオペ中で診れない、他の病院も当直医が胃腸科の先生だったり、循環器科だったりして、結局一つもまともに診てくれる所はなく、翌朝、埼●医大に行くことにしました。
1999年10月4日、朝、埼●医大に行きました。今日も混んでいます。すごい人です。さんざん待たされ、午後、やっとレントゲンです。ここでは4枚撮られました。ここだけの話ですが、ここのレントゲン技師の高圧的な態度には”カチン”とくるものがありました。こういう大病院の「おごり」でしょうか?結局ここでも「2カ所骨折しているね」と言われ、「ここでは手術出来ないから、他の病院を紹介します。」ということになりました。
14時半、紹介された指●病院に着きました。順番が来る前にレントゲンを撮っておいたり(ここでは2枚。ここの技師さんは感じが良かった。人間的な暖かみを感じるね。)他の病院と違って段取りがすごく良かったです。診断の結果は・・・・「同じ骨で2カ所も骨折していて、しかも足首に近いところだし、完全にずれちゃっているから手術をしないとだめです。手術しなくてもこの骨にはほとんど体重は掛からないから、歩ける事は歩けるけど、骨はきっと付かないし、足首を捻ったときにはすごく痛いと思う。手術するなら、明日にでも出来るけど、どうしますか?」というものでした。この時点ではっきり手術というものが提示されました。事故の瞬間、骨折は覚悟してたけど、手術までは覚悟していませんでした。私の決断は、「この先まだ人生長そうだし、仕事も仕事だからきちんと治しておいたら」という妻の後押しもあって手術を受けることにしました。
翌日の手術が決まると、そのまま入院になりました。さっそく入院時の数々の検査です。血液検査、止血検査、心電図、検尿をやり、私は病室に連れて行かれました。病室では血圧と体温を測定し、足の剃毛、足と手の爪を切り、抗生剤のアレルギーテスト、テープのかぶれテスト、入院時オリエンテーション、手術のオリエンテーションなど、またまた目白押しでした。なんだかんだで18時になり、同室の人から色々と手術の事を聞きながら最後の夕食を食べました。さすが病院食です。健康的な豆とかヒジキとか、なんとも質素な夕食でした。今日の夕食は食べられるけど、今日の夜9時から明日一日中絶食です。水も飲めません。20時過ぎ、今日最後のイベントは、生まれて初めての浣腸。トイレに行き、パンツを下ろしてプスッと「あー入るーっ」て感じでした。2〜3分程便器で我慢して「もう、だめ・・・。」というところで下痢状のものを一挙に放出。あー、せっかく食べたばかりの夕食は・・・・。看護婦さんに聞くと、夕食はまだ胃の中くらいだから無事という事。それにしても看護婦さんは手慣れてる・・・・。今日はこれでおしまい。21時の消灯前には今のうちと、がぶ飲みしました。
1999年10月5日、事故から2日後、あれよあれよと手術当日になってしまいました。6時起床。さっそく看護婦さんが血圧と体温を測定に来ました。病院は空気が乾燥しているので、明日の朝食まで水さえ飲めないというのは結構つらそうです。8時、同室の人は朝食です。手術の時間は13時。まだまだ有るようで、でもあと数時間と一番落ち着かない時です。10時過ぎ、T字帯という薄っぺらのふんどしとボタンがいっぱいの脱がせ易い手術着に着替え、採血を2回。そのうち1回は血中酸素濃度を調べるということで、足の付け根の動脈に注射器を突き刺し抜かれました。さらに手術後までする事になる、点滴の開始です。この針は、普通の点滴の針と違って、太く、プラスチックでできています。どっちもけっこう痛かったです。さて、手術15分前。手術室に入る婦長さんが様子を見に来て、看護婦さんが血圧の測定をし最後のトイレを済ませ、12時55分車椅子で私は手術室の中へ運ばれました。妻と両親がドアの向こうに消えていきました。いよいよ手術です。
手術室の中は、一見、メスとかそういう手術道具は見当たりません。患者に配慮しての事でしょうか。誰だってメスとかを見ればやっぱり妙に実感が沸いて怖くなりそうですからね。人が数人、みんな忙しそうに動いていました。その中の一人が「鈴木英夫さんですね。ベットの上までご自分で行かれますか。」「はい、けんけんで行きます。」と私は自ら手術台の上に横たわりました。横になると、すぐに仕事は進んでいきます。まず、両腕、両腿をベルトでしっかり固定されます。もう私は動けません。固定されると布が1枚体に掛けられ、手術着とT字帯をはぎ取られ、すっぽんぽんにされました。当然有無を言わせない態度です。事は進みます。「麻酔科の●●です。体の調子は変わりないですか?」「特にありません。」という問答の後、私の口に柔らかいふわふわのマスクがあてがわれ、「もうやるの?これ麻酔?」という質問もできず「はい、大きく息を吸って吐いて下さい。」という指示をされ、そのようにした後、「普通に息をしていて下さい。」と指示があるのとほぼ同時に頭の上の方でシュッという音がし、変な匂いがしてきました。私はその瞬間、心の中で「今から行きますよ。とか何か言ってからにしてくれよー。」と叫んでいました。麻酔ガスは強力です。一息吸っただけで手足が痺れて来ました。「ああ、だめだ・・・。」と一時はあきらめて目をつぶったのですが、俺はまだ寝ていないぞ!!という意志表示のため、意識を振り絞って、最後の最後まで目を開けていて、かすかに動く指先を動かして感覚を確かめていました。一息吸う毎に痺れは体の中心に近づいてきました。5回か6回吸った所で、私の気力は強引に奪われました・・・・・。その間、手術室にいた人は私の様子を伺う事も無く、(まあ、医者や看護婦さんにとってはいつもの事で、「麻酔を始めてから10秒もすれば眠るわよ」程度にしか思っていないのでしょう)独り孤独におちていきました。
「鈴木さん、鈴木さん。」と誰かが私の肩を叩いています。私は、なんとなく目を覚ましました。「手術終わりましたよ。」と言われましたが、足は痛くありません。寝てからの時間の経過も全く感じません。夢も見ていません。「??」私は、寝た後すぐに起こされた気分です。が!しかし!徐々に足が重く痛くなってきました。看護婦さんは、お構いなしにT字帯と手術着を着せました。私は酸素マスクを付けたまま集中治療室に運ばれました。「ん?いつの間にベットを移されたんだ?」だんだん痛くなってきます。看護婦さんに痛み止めの座薬を入れられます。もうそんなの気にしていられません。それよりこの痛みどこまで痛くなるんだ?どうにでもなれって感じです。手術が終わって麻酔が切れるまでの間、待機していた家族に説明がなされたようです。しばらくして妻と両親がICUに入ってきました。
ICUでは暫くの間、酸素マスクが付けられていて、心電図も翌日まで付けられていました。その他はテレビも無く、食事も無く、本も読む気にもならず、ぼーっとしていました。夜になってさすがに腰が痛くなってきました。横になる事も、起き上がることも出来ず、ずーっと寝たきりですから当然です。足より腰の方が痛かったくらいです。これは、看護婦さんを呼んで、ベットを若干起こしてもらったらだいぶ楽になりました。この後、夜中まであるプレッシャーが襲います。それは排尿です。タイムリミット翌日午前3時までにおしっこが出なかったら、尿道に管を入れるというのです。しかも当直は若い看護婦さん。手術の時に見られているとはいえ、意識が有るときと無いときでは違います。おしっこはしたくて、膀胱はパンパンなのですが、上を向いた姿勢で尿瓶に出せって言われても、何か無意識の抑制が働いてしまうのでしょうか、なかなか出せません。この自分との戦いはタイムリミット50分前まで続きました。もう諦めていたところです。おしっこをするぞーって心で念じながら待ちます。でたーっ!このときほどおしっこが出て嬉しかった事はありませんでした。ここにきてやっとゆっくり寝ることができました。
1999年10月6日、今日も朝から看護婦さんに起こされます。検温と血圧測定です。窓際だったので朝日が昇るのがちょうど見えました。なにか落ち着きます。今日から食事がOKです。待ちに待った朝ご飯です。いっぱい食べるぞーなんて思っていたのですが、ここは病院でした。どこかのお寺で出てくる料理のような質素さでした。しばらくぼーっとしていると、看護助手の若い姉ちゃんがやって来ました。普通の入院着への着替えと、体拭きです。手術着を脱がされ、「失礼します」とT字帯も脱がされ、文字通りベットの上ですっぽんぽんにされてしまいました。若い姉ちゃんと1対1。しかもこっちだけ裸。恥ずかしかったねー。下着の辺は自分でやるものだと思っていたのですが、ここでも問答無用で一気に脱がされ、ふきふきしてもらいました。(←はっはっは。変な表現・・・。)11時頃、やっと一般病室(8人部屋)に移りました。一般病室に移ったといっても、動けないのでテレビを見て雑誌を見ているくらいしかありません。まだ、好きなときに飲み物が飲めるぶんましですが。夕方、先生が来て「今からトイレに行く程度なら足を付かないように両松葉杖で歩いていい。」と言ってくれました。ベットの上でじっとしている分にはあまり痛くないのですが、ちょっと持ち上げると痛み、また、起き上がると足に血がたまって鬱血した感じになり、けっこう痛かったです。今日の夜、4日から入れっぱなしの太い点滴を抜きました。明日からは、朝と夕方に1時間弱の抗生剤の点滴(普通の針)をやるだけになりました。
1999年10月7日〜9日、この間は朝と夕方の点滴だけで、特に変化はありませんでした。9日の回診で傷口の所だけギプスに穴を開けて、そこから直接消毒をしました。
1999年10月10日〜17日、この間は点滴も飲み薬も無く、1日2回の検温の他は、ただ単におとなしく寝ているか、食事しているか、テレビを見ているか、本を読んでいるかのいずれかの暇暇な毎日でした。
1999年10月18日、入院時に入院期間は2週間と言われていたので、今日の回診で退院許可が出るかと、期待が高まります。放送で「ただいまより整形外科の回診が始まります。患者さんはベットでお待ち下さい。」とアナウンス。いよいよ回診です。しばらくして先生が来ました。例のふたを開けて消毒をし、なんと元通りふたをしようとするじゃありませんか!すかさず私は「あれ?今日抜糸じゃないんですか?」と聞いたところ、「鈴木さんはいつ手術だっけ。あーもう大丈夫だな。じゃあやるか。」と言って抜糸をすることになりました。聞いて良かった・・・。抜糸は、まあ、すね毛を引っ張って抜く感じ。気持ちはそんなに引っ張るとせっかく付いた傷が、また裂けちゃうじゃないかと思っていたけど。そして、「退院は?」と聞くと、「今日、レントゲンを撮って、骨が砕けていなければ明日にでもいいよ。」との返事。やったー。明日、退院だー。その後、レントゲンを撮って先生から簡単な説明の後、退院OKが決定。
1999年10月19日、午前11時、退院。松葉杖って貸してくれるのかと思っていたら、買い取りでした。まあ、3000円と安かったからまだいいけど、完治した後はこんなものどうするんだ?記念にとっておく?誰か今度骨折した時にはレンタルするのでその時はメール下さい。入院費は、健康保険で2割負担になり、約12万円。とんだ出費でした。退院したと言っても、足は地面に着けないし(移動は両松葉杖)、濡らせないし、ギプスはしたままだし、入院している時と何も変わっていません。さて、いつになったら、ちゃんと両足で歩けるようになるのでしょうか?
1999年10月27日、 退院後初めての通院。あー・・・・甘かった・・・・。もうほとんど足は痛くないから、どうしても先を焦って期待して行っちゃうんだよね。昨日の通院でも行くときなんか、今日あたり、もしかしたら「ギプス外して歩いてもいいよ。」なんて言われるんじゃないかと思ってたのに・・・・。レントゲン撮って、結果は無惨、何も変わっていない。「骨が付き始める兆候はまだ無いですね。ギプスが足首まで緩んでくるようでしたら来週で、大丈夫そうでしたら2週間後に来て下さい。」とのこと。まあ、先生によると、「普通はこの期間じゃ兆候は出ない。子供並に骨が成長している人は別ですけど。」とフォローがあったからまだ良かったけど。なんともがっくり・・・。当然、足を着けて歩く事も、濡らす事も禁止のまま、あと最低2週間は、家の中では両手と右足の3本歩行、外では両松葉杖。当然、階段の昇り降りなんて至難の業。風呂もトイレも面倒臭い。仕事も当分行けません。今回も骨折の治るまでのじれったさを実感しました。もうねぇ、基本的に立っていたり、横になって寝ることができないから、ケツが痛くてしょうがないよ・・・。
1999年11月10日、2度目の通院。今日はちょっと進歩したようです。レントゲン室から診察室に写真を持って行く前に、ちょっと見てみました。私が見た範囲では2週間前と全く同じで、全然骨は出てきていませんでした。しかし、診察室で先生が「あー出てきたねぇ。」と言ったのです。先生は「ここに薄皮1枚みたいのがあるでしょ。」と言いますが、それでも私にはよく分かりませんでした。まあプロの目にはそれがわかるのでしょう。現状ではその程度しかまだ治っていないということです。そしてとうとうギプスが外されます。手術の時に比べてかなりゆるくなって来ていました。それだけ私の足の筋肉が落ちたという事です。外れた時、軽くなった喜びと、超細くなった足を見ての複雑な気持ちでした。そして足首が動くかのチェックです。先生はつま先を押してきます。ここである程度まで痛くなく曲がるとOKです。「優秀だねぇ。リハビリはいらないね。」との事。ラッキー!!しかも、「これからは、普通にお風呂に入って良いですよ。」とも。しかーし・・・「足は着かないで下さいね。まだ骨は付いていないですから、足に体重を掛けちゃって中の金具がいっちゃうとお終いですよ。」ということで、また今後2週間は家の中では両手と右足の3本歩行、外では両松葉杖のまま会社もお休みです。
今日のレントゲン写真を見て気付いた事がありました。骨に沿って針金を入れたと思っていたのですが、実は骨の中に突き通していたのです。近況やこの体験記に骨に沿ってと書かれている部分はすべて修正です。
1999年11月24日、3度目の通院。今日のレントゲンでははっきりと骨膜というものが見えました。今日から体重の1/3まで体重をかけても良いことになりました。まだ両松葉のままですが、本格的な歩行のリハビリに突入です。来週は体重の1/2まで、そしてまた2週間後に通院です。都内までの電車通勤はまだ無謀とのことで、さらに2週間欠勤が確実になりました。
1999年12月08日、とうとう12月。骨折から2ヶ月経過。そして4度目の通院。前回よりもはっきり骨膜が見えます。しかし、2カ所骨折したうち下の方は成長が遅いようです。今日から1週間は体重の1/2、来週は2/3、そして2週間後に通院です。多分今度の通院後には全体重の荷重がOKとなり、一応何も使わずに歩行が出来る見通しです。今年いっぱいは歩く練習で、ちゃんと歩けるのは来年かな?という所です。仕事の方は、歩けるようになってからという事で、またまたこの先2週間の欠勤です。復帰後は、すぐ現場という訳にもいかず、電話番になりそうです。
1999年12月22日、5度目の今年最後の通院です。前回心配していた下の部分にも骨が見えてきています。今日、予想通り全体重をかけて普通に歩く事がOKとなりました。ただ、足首を曲げると中の金具が当たって(ずれて)痛いので、変な歩き方になってしまいます。骨折してから3ヶ月弱。長かった〜。滑らかに歩けるようになって、それから荷物を持って歩けるようになって、走れるようになるのはまだこの先です。骨は最終的にはレントゲンで撮っても全く分からないほどにちゃんと元通りに戻るそうです。ただし、数年後。仕事は、大事をとって今年は年末の仕事納めの時だけとなりそうです。
2000年01月05日、2000年1回目、通算6度目の通院。歩き始めたせいか、骨の付くスピードが速くなったような気がします。折れた部分の周りから、今度は隙間まで埋まってきました。いったいどの時点で骨が付いたと判断するのかわからなくなりました。今度先生に聞いてみます。まだ衝撃には要注意と言われています。会社ではもう治ったのか?と言われますが、治ってはいないと思います。ただ、歩けるようになっただけです。だいぶ馴れてきましたが、まだびっこを引く感じになってしまいます。
2000年01月26日、通算7度目の通院。骨折してから4ヶ月弱。やっと見た目で普通に歩けるようになりました。まだ全力疾走は無理ですが、ちょっとした小走りなら出来るようになりました。ジャンプはまだ出来ません。仕事中に一度高い物を取ろうとして無意識にジャンプをしたのですが、ぜんぜん飛べませんでした。横からの衝撃にさえ気を付けていれば、多少の事はすべてOKが出ました。中の針金を抜くのは数ヶ月先になりそうです。どの時点で骨が付いたかという事については、「もう骨膜がだいぶしっかりしてきたのでずれることはまず無いと思う。」との回答でした。
2000年02月16日、手術から5ヶ月弱。今日、ついに針金を抜いても良さそうだと言われました。えー、うそー。心の準備が・・・。で、3週間後の次回の通院は針金を抜きます。足首周辺に局部麻酔をかけ、くるぶしの下を少し切り、そこから針金の先をペンチでつかんでズルズルと引っ張って抜くそうです。切った所は縫合しておしまい。その1週間後位に抜糸となるそうです。まあ、この辺は実際にやってからもう一度書きます。
回復は早いもので、今では全力疾走以外ならそこそこ出来るようになりました。階段の1段飛ばしとか、無謀な事はまだ試していません。
2000年03月08日、ついに針金を抜く当日。ちょっと緊張しつつ病院に行きました。いつも通りレントゲンを正面・側面から撮った後、診察。順番が来るのが本当に長く感じられました。処置室に入って横になると、消毒をして、くるぶしの下に局所麻酔をします。これはまあ普通の注射の痛さ。しばらくして足の周りに紙みたいので覆いが掛けられ、切開する部分だけ見えるようになりました。まった無しの瞬間です。切られる感覚は良くわかりました。肉がついているので針金の先を探すのに手間取っています。その度に麻酔をしているとはいえ激痛が襲ってきます。医者は「痛かったら言って下さい。もう中に直接やるから痛くないよ。」と言ってくれますが、辞退してがまんしました。やっと探し当て、抜き取る作業に移るのですが、何で抜くと思いますか?ペンチです。あの工具のペンチ。先を挟んで引っこ抜くのですが、簡単にするする抜ける訳ではありません。医者も力任せに一気に力を入れて抜こうとしています。しっかり骨についていて、奥の方まで30cm位あるものを引っ張るのですが、何度も何度もペンチの先から滑ってしまい、その度に衝撃と激痛が襲います。くるぶしの内側、骨の中での作業です。普通じゃ考えられないですね。そしてついに、この日一番の激痛とともに一気に抜けました。足はピクピク痙攣しそうな状態です。そして縫合。縫っているときは全く痛みや感覚はありませんでした。
抜くのでこの作業ですから、入れる時なんかはもっとすごい状況だったのでしょう。全身麻酔で良かったのかも知れません。まさに外科的。切って縫っての、私の足はモノですね。1週間後に抜糸します。ああ、これでもう痛い思いは最後かな?
2000年03月15日、予定通り抜糸しました。今日はレントゲンは無く、すぐに診察になったのですが、消毒をしてなんとガーゼをあててしまったのです。あれ?っと思い、「今日抜糸じゃないのですか?」と聞くと、「あれ?いつやったっけ?」と言うので「1週間前です。」というと、ガーゼを外し、傷口を見て、「ああ、大丈夫だ。抜糸しましょう。」という事になったのでした。今日抜糸しないで、消毒してガーゼをあてるだけなら、何のためにわざわざ仕事を休んだのかという事になるところでした。
2000年03月22日、針金を抜いてから2週間経ち、針金の支えが無くなって(普通に体重をかけて生活していて)骨に対して問題が起きていないか検査をするためにレントゲンを2枚撮りました。また、新たに骨が見えてきていて良いことはあっても悪いところは見つかりませんでした。これ以降のレントゲン検査はさらに期間を開けてすることになりました。
次回の通院は6月か7月という事になりましたので、この骨折入院体験記もひとまず終了ということにしておきたいと思います。
最終更新日:2000/03/22